ブラタモリ

NHKブラタモリ「伊勢神宮への旅・第五夜▼ついにゴールの神宮へ!斎宮・二見浦」

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伊勢神宮への旅、完結編!ついにゴールの伊勢神宮へ!まずは巨大な宮殿・斎宮跡へ。伊勢神宮の神様に仕えた「斎王」の意外な姿にタモリもびっくり!さらに古代の伊勢路を発見!江戸時代の道との違いとは?そしてちょっと寄り道!?二見浦の夫婦岩へ。江戸時代の旅人もわざわざ立ち寄った奇跡の絶景を生んだ大地のエネルギーとは?ゴールの伊勢神宮では外宮から参拝。外宮で唯一、東向きに立つお宮で外宮誕生の秘密に迫ります!

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伊勢神宮への旅の最終夜です。

今回は、三重県明和町の「斎宮(さいくう)跡」、二見浦の「夫婦岩」を巡って、最後、伊勢神宮の「外宮(げくう)」、そして「内宮(ないくう)」に到着して長い旅が完結しました。

はじめの斎宮跡には、かつて飛鳥~南北朝時代に宮殿があり、幻の宮ともいわれるそうです。現在は復元された宮殿の建物がありました。

この宮殿のトップが「斎王」で、斎王とは、伊勢神宮に天皇に代わって仕えるため朝廷から派遣された未婚の女性だということです。

江戸時代に旅人も立ち寄った二見浦では、海に浮かぶ夫婦岩の眺めを楽しみました。中央構造線の断層が生み出した岩の景観に、条件が合えば遠く水平線に富士山も見える絶景スポットでした。

長い旅を経て、伊勢路がさまざまな魅力あふれる道だったことがよく分かりました。

​NHKブラタモリ「伊勢神宮への旅・第四夜▼江戸を席巻した松阪商人!松阪牛に舌鼓」

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。第四夜は、三重県の県庁所在地“津”からスタート。津は伊勢路の宿場町であり、築城の名手・藤堂高虎が築いた城下町だった!津城の荘厳な姿を堪能します。伊勢路を城下町に引き込んだ高虎のねらいとは?松阪では、江戸の日本橋を席巻した豪商・松阪商人が驚異の財を成した秘密や、日本屈指のブランド牛・松阪牛が生まれた理由に迫ります!

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伊勢神宮へ続く道「伊勢路」を旅した回の第四夜です。

今回は、「津」と「松阪」の2つの宿場町を巡って、伊勢路の魅力を解き明かしました。

「津」には、かつて「津城」があったそうです。
この城と城下町を築いたのが、築城の名人・藤堂高虎で、高虎は伊勢路のルートを城下町内に引き込むことによって、町ににぎわいを生み出したそうです。

次の宿場町「松阪」は、江戸時代、牛ではなく別のイメージの町だったそうです。江戸時代は牛を食べる習慣がなかったそうです。

町を巡ると、三井財閥の発祥の家など、立派なお屋敷があちこちにありましたが、「別のイメージ」とは「豪商の町」だったということでした。

豪商が多くいたのは、実は、松阪は徳川紀州藩の領地で、江戸での商いを有利に進めることができたためで、一大ブランドだった「松阪縞(じま)」という反物で繁盛したということです。

訪れた老舗料亭では、タモリさんたちが松阪牛のすき焼きを堪能して満足そうでした。

​NHKブラタモリ「伊勢神宮への旅・第三夜▼徳川御三家の巨大港!超絶技巧の土産!」

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第三夜は、鈴鹿サーキットをタモリが激走!コースの中で見つけた謎の池の正体とは?さらに白子宿では、徳川御三家が作った巨大港を発見!江戸時代、地域の一大拠点となった町で、伊勢参りの大人気おみやげを作った驚異の職人技に迫ります

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伊勢神宮への道「伊勢路」を旅した回の第三夜です。

なぜ伊勢路の宿場でお餅が名物になったのか?
この問いを解き明かすため、前回から鈴鹿サーキットを訪れて探ったところ、サーキット内には田んぼに使うための池が残っていて、また、サーキットの周りには田んぼが広がっていることが分かり、江戸時代から伊勢は米どころで、お餅が名物になったことが分かりました。

次に、三重県鈴鹿市白子(しろこ)の「白子宿」を訪れました。
白子宿には港があり、人工的に川を曲げて、物資を運ぶための水上ネットワークが張り巡らされ、江戸時代の伊勢湾の中でも重要な港だったということです。

なぜ重要視されたのか?
じつは、白子は紀州徳川家の飛び地で、紀州藩が治めていた土地だったということです。

この港のおかげで、美しい模様をつける染めの技術「伊勢型紙」が全国に広まり、この型紙で作ったあるおみやげも人気になったそうで、伊勢路の魅力をまた一つ高めるものでした。

NHKブラタモリ「伊勢神宮への旅・第二夜▼鈴鹿名物グルメ!タモリ大興奮の三差路」

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新シリーズ第二夜!伊勢神宮へと至る“伊勢路”と呼ばれる道の中でも、江戸からお伊勢参りに向かった人々のメインルート、三重県桑名市から伊勢神宮までの90kmに及ぶ道を旅します。鈴鹿で見つけたのは、三差路に建つ老舗旅館!江戸時代の旅人気分を味わったタモリは大興奮!さらに宿場町で誕生した名物グルメの秘密を鈴鹿サーキットで発見!?江戸時代に大ブームとなったお伊勢参りの痕跡から、街道の魅力を解き明かします!

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伊勢神宮への道「伊勢路」を旅した回の続きです。

前回に続き、三重県鈴鹿市神戸(かんべ)の「神戸宿」を巡りながら、伊勢路の魅力を探りました。

神戸宿を巡っていくと、娯楽や名物グルメなど、旅人を楽しませるいろいろな仕掛けがあり、それが伊勢路の大きな魅力であることが見えてきました。

神戸宿の名物グルメは、立石餅というお餅が名物だったそうですが、伊勢路は「餅街道」とも呼ばれ、各宿場町にいろいろな名物餅があり、赤福もその一つで、旅をしながら食べ歩きができたのも伊勢路の魅力だったそうです。

なぜ名物餅がたくさん生まれたのか?
それは鈴鹿サーキットに関係があるということで、訪れて探っているところで今回は終了。次回の続きが気になりました。

​NHKブラタモリ「伊勢神宮への旅・第一夜▼巨大鳥居の謎!名物グルメ!三差路!」

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新シリーズスタート!4月は伊勢神宮をめざす旅!伊勢路と呼ばれる道の中でも、江戸からお伊勢参りに向かった人々のメインルート、三重県桑名市から伊勢神宮までの90kmに及ぶ道を旅します!第一夜は、桑名で船着場に建つ鳥居の意味を解き明かし、伝統の焼きハマグリに舌鼓!「日永の追分」(四日市)で見つけた三差路にタモリ大興奮!「神戸の見つけ」(鈴鹿)で木戸の痕跡を発見!知られざる町の歴史や人々の暮らしに迫ります

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伊勢神宮に続く道「伊勢路」を旅しながらお題を解き明かしていくシリーズの初回です。

旅のお題は「憧れのお伊勢参り ~行けばわかるさ 伊勢路の魅力~」。

伊勢路は、三重県桑名市から伊勢神宮までの90kmに及ぶ道で、江戸時代、多くの江戸っ子たちがこのルートを通って伊勢神宮を目指したそうです。

起点となる桑名には立派な鳥居があり、ここから伊勢神宮への道が始まることを表していました。
ここは「桑名宿」でもあり、東海道で2番目の多さの120軒の旅籠屋があり、名物の焼きハマグリもあって、にぎわっていたそうです。

次の宿場町は、三重県鈴鹿市の「神戸宿(かんべじゅく)」。
この宿場町の入り口には大きな木戸があり、日が暮れると閉められいたということです。

なぜ木戸があったのか?
じつは、かつて神戸城があり、城下町だったそうです。木戸は城下町を守るためにあったそうで、門限のあるユニークな宿場町でした。

​NHKブラタモリ「東海道“五十七次”の旅▼第三夜 ついにゴールの大阪へ!」

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江戸と大阪を結ぶ大動脈の全容が見えてくるクライマックス!五十六番目の宿場町「枚方宿」と五十七番目の宿場町「守口宿」、そして大阪市内のある「橋」を目指す!

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東海道“五十七次”のルートを巡るシリーズの第三夜です。

五十六番目の宿場町「枚方宿」、五十七番目の「守口宿」、そして、ゴールの大阪市内を目指しました。

五十六番目の「枚方宿」は、淀川と街道が接するギリギリの場所に宿場町がありましたが、ここに徳川の思惑があり、川のそばに宿場を置くことで、水運により、人や物が集まる便利な場所をつくろうとしたということです。

五十七番目の「守口宿」では、探っていくと、淀川沿いの高い堤防の上に宿場町があったことが分かりました。

この堤防は、じつは豊臣秀吉が築いたもので、これに家康が目を付けたそうです。堤防の下は低地で、淀川が氾濫すると水浸しになる恐れがあるため、堤防の上を東海道にして宿場町を置いたということです。秀吉がつくった堤防を利用する家康のしたたかさがありました。

スタートが江戸の日本橋、五十三次のゴールは京都の三条大橋。
五十七次のゴールはというと、やはり大阪市内の「橋」で、それは「高麗橋」でした。

歌川広重の東海道五十三次が有名になったため、五十七次は忘れられがちですが、徳川の思惑を秘めた重要なルートだったことが良く分かりました。

NHKブラタモリ「東海道“五十七次”の旅▼第二夜 京都競馬場と石清水八幡宮へ」

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五十五番目の宿場町「淀宿」へ!京都競馬場の“淀の坂”と石清水八幡宮からの絶景に徳川の思惑がわかる秘密が!?江戸時代の絵図を頼りに知られざる東海道の謎を探る。

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東海道“五十七次”のルートを巡るシリーズの第二夜です。

今回は、五十五番目の宿場町「淀宿」を訪れました。

この淀宿は、隣の伏見宿から4キロしか離れておらず、また、かつて大きな池があった湿地帯で、なぜここに宿場町を作ったのか?その思惑を探りました。

探っていくと、淀宿に沿ってお堀がありましたが、じつはここに「淀城」があり、お城の中を通る東海道のルート沿いに宿場町があったということです。

徳川が本当に作りたかったのはお城で、宿場町はオマケのようなものだと考えられるそうです。

そして、ここに城を置いたのは、近くの石清水八幡宮が関係しているということです。
石清水八幡宮のある場所は、2つの山で挟まれた京都を守る「関門」のような地形で、この関門の地形の前に淀城を構えることで、西の勢力に対する防波堤の役割をする狙いがあったということで、なぜここに作ったのか思惑がよく分かりました。

​NHKブラタモリ「東海道“五十七次”の旅▼第一夜 京都・三条大橋から伏見へ」

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三夜連続SPの第一夜!江戸時代の絵図を頼りにタモリが知られざる東海道の謎を探る。五十四番目の宿場町は超巨大

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東海道“五十七次”のルートを巡るシリーズの第一夜です。

東海道には五十三次とは別ルートの五十七次があるということです。

徳川幕府が整備した知られざるもう一つの東海道で、そこには徳川幕府の深い思惑があるということで、五十七次のルートを巡りながらその思惑を解き明かしました。

五十三次は、江戸からスタートして京都がゴールですが、滋賀・大津に分岐点の三差路があり、そこから分かれて大阪をゴールとするルートが五十七次だということです。

なぜ大津で道が分かれているのか?
ここに徳川の第一の思惑があり、それは京都を通らないルートにしたためで、参勤交代で大名たちが東海道を通る際、天皇のいる京都を通らないようにすることで、朝廷と接触させないようにして反乱を防いだということです。

五十四次目は京都の伏見で、「伏見宿」は東海道最大級の宿場町だったそうです。巨大な宿場町であるのは、宿場町ができる前から豊臣秀吉が作った巨大な城下町だったことにあり、家康がそのまま引き継いで宿場町にしたそうで、ここにも思惑がひそんでいて家康の巧みさを感じました。